襖にほとばしる墨。迫力は現地で!倉紡記念館
まさかここで会えると思いませんでした…
棟方志功さんの、襖に描かれた書と画があなたを待っています。
その迫力は圧巻。
こればっかりは目の前にしないと分かりません!
※許可を得てから写真を撮りました
墨の散らばりに、勢いを感じます。
襖とはいえ、この書の襖は通常サイズより大きい。
ついつい、どんなに大きな部屋だったのかと考えてしまいます。
戦時中に棟方志功さんが倉敷を訪れた際、『倉紡従業員(勤労学徒)の教育に資するものを』と請われて、礼法室の襖に描いた書と画。
玉 琢かざれば 器を成さず
人 学ばざれば 道を知らず
※展示より引用
その迫力と言葉に、気が引き締まる思いです。
そもそも倉紡(くらぼう)とは、倉敷紡績のこと。
会社創設の功労者として紹介されている、3人の青年。
大橋澤三郎さん、小松原慶太朗さん、木村利太郎さん。
明治19年(1886)三人は鶴形山を散策しながら、広がる綿畑や、働く場のない人々を眺めながら現状を革新しようとする思いを募らせていき、「知識交換会」というグループを結成。
入手した経済資料を入念に検討、情勢についての分析と洞察に努め、将来の倉敷の姿を求めて研鑽を重ねたそうです。
その熱意は周囲の人も動かし、県会議員や大地主、大原孝四郎さんの賛同を得て、資金を調達。
株式募集は直ちに満株となり、初期の株主はほとんどが倉敷及び岡山県下の人。
倉敷紡績創設の理念に共鳴し、創立者の熱意にほだされた…
([倉敷紡績百年史]倉敷紡績/編より)
展示パネルにあるとおり、『倉敷紡績創設のため奔走尽力』した姿が目に浮かびます。
自画像も展示してあり、それぞれの人柄が分かる言葉が。
大橋澤三郎
工事建設中、病を得て静養したが、工場もようやく稼働しはじめた明治22年(1889)10月30日工場の汽笛を病床に聞きながら長年の希望を達した喜びに満足して若い生涯を閉じた(29才)。
(『東京に遊学し、各種の経済資料を集めてきた』[倉敷紡績百年史]倉敷紡績/編より抜粋)
木村利太郎
天性温厚・酒脱、世人より敬愛された。(略)頭脳きわめて緻密明晰。特技として原綿の鑑定には定評があった。
(『経済動向の機を見るに敏で商才に長じていた』[倉敷紡績百年史]倉敷紡績/編より抜粋)
小松原慶太郎
温厚な人柄で衆望厚く、草創期の会社の基礎を固めた。
(『雄弁と説得力にたけた』[倉敷紡績百年史]倉敷紡績/編より抜粋)
大橋澤三郎さんは病に倒れてから
『悪化する病床にあって、無念に涙していたが、漸く完成した工場の汽笛を耳にしたとき、その理想の実現に、安堵と満足の笑みを浮かべ、静かに瞑目していった。
それは、開業十日後のことであった。』とあります。
※[倉敷紡績百年史]倉敷紡績/編より抜粋
数えきれない多くの方の情熱で倉敷紡績が
倉敷紡績の経営者、大原家によって街が、倉敷がつくられてきた
そう考えると、歴史のある街であり、世界に誇れる倉敷だと
私の心に刻まれます。
ここに生活できることにも感謝。
倉紡記念館の建物は近代化産業遺産(平成19年度 経済産業省)であり、登録有形文化財(文化庁)です。
NHK連続テレビ小説『マッサン』の撮影も行われた、アイビースクエア内にあります。
以上、1ヶ月ヘルパー体験中かつ倉敷滞在17日目のKiYoNoがお送りしました!
みなさんと有鄰庵で会えますように…
<おまけ>
倉紡が作成した、昭和10年の工場すごろくは女工さんが描かれていて
【ふりだし→入社】【あがり→結婚】となっていました。
現代版なら、【あがり→出世】かな?